クリスチャンに傷つけられるとき

7月7日 第189日

ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 07月 07日  - 

キリストは自ら十字架の上で/私たちの罪をその身に負われた。/それは、私たちが罪を離れ、/義のために生きるため。/その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。

(ペテロの手紙第一2:24)

悔い改めているクリスチャンの兄弟姉妹に対して、私たちが恨みを抱かない根拠は何でしょうか?

自分自身に向けられたひどい悪意に対して湧き上がる道徳的な憤りは、それを行った相手がクリスチャンだからといって消えるものではありません。むしろ、裏切られたという思いはさらに増すかもしれません。そして単純に「ごめんなさい」と言われるだけでは、その悪意の痛みや醜さに比べたら到底不釣り合いだと感じることも多いでしょう。

しかし相手がクリスチャンである場合、悪意を行う者に降りかかるはずの神の怒りの約束は当てはまりません。なぜなら、「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決して[ない]」からです(ローマ8:1)。「神は、私たち[クリスチャン]が御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです」(Iテサロニケ5:9)。では彼らは、無罪放免ということになるのでしょうか!

私たちはどうやって、公正が行われると——キリスト教が罪の重さをあざ笑うことはないと——確信を持つことができるのでしょうか? 

答えは、キリストの十字架を見上げることです。れっきとした信仰者によって行われた悪意は、イエスの死によってすべて報いを受けています。これは、すべての神の民のすべての罪がイエスの身に負わされたという、シンプルながら圧倒させられる事実に暗示されています。「は私たちすべての者の咎を/彼に負わせた」(イザヤ53:6; Iペテロ2:24)。

キリストの苦難は、あなたがクリスチャンの兄弟姉妹から今までに受けたすべての痛みに対する、神の真の罰、報いでした。ですから、キリスト教は決して、罪を軽く見たりすることはありません。私たちの受けた傷に侮辱で報いるなどということはないのです。

それどころか神は、私たちに対して行われた罪を正すため、ご自分の御子を苦しみのために与えるほどに、罪を真剣に扱われました。その苦しみは、罪を犯した相手に対して、私たちにはとても負わせることができないほどの苦しみです。もし私たちが、クリスチャンの兄弟姉妹に対して恨みを抱きつづけるなら、それはキリストの十字架が神の民の罪に対する十分な報いではなかったと言っているのと同じです。これは、断じて避けるべき、キリストとキリストの十字架に対する侮辱です。

聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

THIS ARTICLE HAS BEEN TRANSLATED AND USED WITH PERMISSION FROM DESIRING GOD. THE ORIGINAL CAN BE READ HERE, When Another Christian Hurts.
この記事は「DESIRING GOD」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:When Another Christian Hurts.