7月8日 第190日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 07月 08日 - この記事は約2分で読めます。
互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。 (エペソ4:32)
互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。
救いをもたらす信仰は、ただ自分が赦されていると信じるだけではなく、罪の恐ろしさに目を留め、それから神のきよさに目を向け、神の赦しが言葉にならないほど栄光に満ちた美しいものであることを、霊によって理解します。赦しはただ受けるだけではありません。赦しをおそれ、称えるのです。私たちは、それほどに偉大な赦しの神が、友となってくださったことに満足を得ます。
神の赦しを信じる信仰は、単に自分は罪の罰を免れたと胸をなでおろすことではありません。赦してくださる神こそ、宇宙の中で最も尊いお方だという真理を味わうことを意味します。救いをもたらす信仰は、神によって救われていることを喜び楽しみます。そしてそこから、赦してくださる神を、そして神がイエスにあって私たちのために表されるすべてのことを、喜び楽しむようになるのです。この体験は、私たちが人を赦すようになるために、とてつもなく大きな影響を与えます。
私たちの赦しを買い取るという偉大なわざは、過去のもの、すなわちキリストの十字架です。こうして過去に目を向けることによって、私たちは恵みを学び、その恵みに永遠に立つようになります(ローマ5:2)。私たちは、今、そしてこれからもずっと、愛され受け入れられていることを学びます。生ける神は、赦してくださる神であることを学ぶのです。
しかし、私たちの赦しの経験という偉大なわざは、永遠に至るまで、将来のものです。赦しを与えてくださる偉大なる神との喜びの交わりは、永遠に続きます。したがって、赦しの自由もまた、このすべてを満たす赦しの神との交わりから流れ出るものである以上、私たちが赦す限り永遠に続きます。
もし信仰が、ただ過去にある十字架だけを見つめ、自分は罰を免れたと結論づけるだけなら、人に恨みを抱きつづけることも可能であることを私は学んできました。だから私は、真の信仰がどういうものかをさらに深く突き詰めなければならないと感じています。真の信仰は、自分は罰を免れたと胸をなでおろすだけではなく、神がイエスにあって私のために表されるすべてのことに深く満足することです。このような信仰は、過去を振り返るとき、自分が罰を免れたことに気付くだけでなく、神との交わりの中に、終わることのない、和解を得た明日という将来を与えてくださる神を見出し、味わいます。そのような、赦してくださる神との満たされた交わりは、私たちが赦す者となるために必要不可欠です。