7月10日 第192日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 07月 10日 - この記事は約2分で読めます。
「その日には多くの人がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』」 (マタイの福音書7:22)
「その日には多くの人がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』」
「信仰」の心と、「行い」の心との違いについて考えてみましょう。
行いの心は、自分の力で何かを達成したという慢心的な高揚から満足感を得ます。垂直の岩壁をよじ登ることにチャレンジしたり、職場で必要以上の責任を負ったり、戦闘地帯で命懸けで戦ったり、マラソンに耐え抜いたり、宗教的な断食を何週間も続けたりするなど、自分の意志の力と肉体のスタミナの耐えうるところまで挑戦し、その困難に打ち勝ったという満足を得ることが目的です。
行い中心の心は、また別の方向に走ってしまうこともあります。それは、礼儀や慎み深さ、道徳規範に反抗することで、自立性、自己主導性、自己達成感を愛するようになることです(ガラテヤ5:19-21)。しかし、不道徳であろうと、不道徳な行為に対して十字軍を組織しようと、それが自己決定的で虚栄に満ちた行い中心の心であることには変わりありません。共通しているのは、自己主導性、自立性、そして虚栄的であることです。これらすべてにおいて、行いを中心とする基本的な満足感は、自己主張が強く、自立的で、可能なら勝ち誇った自分を味わうことにあります。
信仰の心は、これとはまったく違います。将来に目を向けるとき、その願いの強さは変わりません。しかし、その望みは、神がイエスにあって私たちのために表してくださるすべての体験に完全に満足することなのです。
「行い」が、自分で障壁を乗り越えられたという満足感を望むとしたら、「信仰」は、神が障壁を乗り越えてくださったことに満足感を得ます。行いは、自分の能力や強さや賢さが讃えられる喜びを求めますが、信仰は、神の力と強さと知恵と恵みが讃えられるのを目の当たりにすることを喜びとし、求めます。
宗教的に言うならば、行いは道徳への挑戦を受け入れ、大変な努力を費やしてその障壁を克服し、その勝利を神からの承認と報いを得るために献げます。信仰も同じように、道徳への挑戦を受け入れますが、あくまで神の力の道具となるために過ぎません。そして勝利を得たとき、信仰は、すべての栄光と感謝が神のものであることを喜ぶのです。