7月21日 第203日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 07月 21日 - この記事は約2分で読めます。
この身も心も尽き果てるでしょう。/しかし 神は私の心の岩/とこしえに 私が受ける割り当ての地。 (詩篇73:26)
この身も心も尽き果てるでしょう。/しかし 神は私の心の岩/とこしえに 私が受ける割り当ての地。
この聖句の原文では、動詞は「尽き果てるでしょう」ではなく「尽き果てる」となっています。神に夢中になっている、このアサフという詩篇の作者は、「この身も心も尽き果てる!」と語ります。私は落胆し、失望している! しかし、すぐに彼はその落胆に反撃します。「しかし 神は私の心の岩/とこしえに 私が受ける割り当ての地。」
アサフは、落胆に屈しませんでした。不信仰に反撃して、戦うのです。
突き詰めてみると、アサフはこう言っています。「内側では、私は本当に弱く、無力で、何もできないと感じています。私の身体は疲れ果て、わたしの心は死んだも同然です。しかし、この失望が何によるものであれ、私は屈しません。私は自分を信じるより、神を信じます。神こそが、私の岩、私の割り当ての地です。」
聖書には、沈んだ霊と戦う聖徒たちの例が多く記されています。「主のおしえは完全で/たましいを生き返らせ」という詩篇19篇7節のことばは、聖徒たちも時として生き返る必要があるということを明確に認めています。そして、もし生き返る必要があるとすれば、それはある意味で「死んでいた」ということです。少なくともそう感じたことは間違いありません。
ダビデもまた、詩篇23篇2-3節で「主は私を……/いこいのみぎわに伴われます。/主は私のたましいを生き返らせ……」と、同じように語っています。「[神の]心にかなう人」のたましいでさえ(Iサムエル13:14)、生き返る必要があるのです。ダビデもまた渇きに瀕し、今にも力尽きようとしていましたが、神はそのたましいを水のほとりに導き、もう一度いのちを与えられました。
神はこれらの証を聖書に記すことで、私たちが失望による不信仰との戦いに役立てることができるようにされました。そして私たちは、神の約束を信じる信仰の爆発をもって、戦います。「神は私の心の岩/とこしえに 私が受ける割り当ての地。」 このみことばを、自分自身にしっかりと語りかけましょう。そしてこの剣で、サタンの顔を突き刺すのです。そして、信じましょう。