7月23日 第205日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 07月 23日 - この記事は約2分で読めます。
信仰によって、モーセは成人したときに、ファラオの息子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした。 (ヘブル人への手紙11:24-26)
信仰によって、モーセは成人したときに、ファラオの息子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした。
もしくは、本質的な部分だけに煮詰めると、このようになるでしょう。「信仰によって、モーセは……はかない罪の楽しみにふけるよりも、……与えられる報いから目を離さなかった」(ヘブル11:24-26)。
信仰は、「はかない罪の楽しみ」では満足しません。喜びに飢えています。絶えることのない、永遠に続く喜びです。そして、神のことばにはこうあります。「満ち足りた喜びが あなたの御前にあり/楽しみが あなたの右にとこしえにあります」(詩篇16:11)。ですから、信仰は罪の欺瞞に満ちた快楽の横道にそれることはありません。最大限の喜びの探究を、簡単に諦めることはないのです。
神のことばの役割は、神を求める信仰の「食欲」に食べ物を与えることです。そうすることによって、欲望という欺きの味から、私の心を引き離すことができます。
最初、欲望は、もし私が純潔の道を辿るなら、魅惑的な罪の満足感をみすみす逃してしまうのではないかと思わせます。しかしそこで、私は御霊の剣を手に取り、戦い始めるのです。
信仰が神のいのちと平和で満たされることを祈るとき、御霊の剣が、欲望の毒の外側を塗り固めている砂糖を砕き、取り除きます。そうすると隠れているものが見えてくるのです。神の恵みによって、その魅惑の力は打ち砕かれます。