9月23日 第267日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 09月 23日 - この記事は約2分で読めます。
「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」 (出エジプト記33:19)
「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」
モーセは、うなじを固くする民を、神が本当に憐れんでくださるという希望を必要としていました。民たちは偶像礼拝を行い、エジプトから自分たちを救い出してくださった神を蔑んでいたからです。
モーセが必要としていた希望と確信を与えるために、神はこう言われました。「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ」(出エジプト33:19)。それは言い換えると、こういうことです。「わたしの決意は、人の中にある悪や善の度合いによるのではなく、わたしの自由な主権的意志のみによるのだ。だから、あの人は恵みを示すにはあまりに罪深いなどとは、誰も言うことはできない。」 そうでなければ神は自由ではなく、神の選びは無条件的ではなくなってしまいます。
無条件的選びの教理は、最も罪深い罪人にとってすばらしい希望の教理です。これは、あなたが恵みを受ける対象者となったとき、あなたの生い立ちは神の選択にまったく関係しないということだからです。なんと良い知らせでしょうか。
もしあなたがまだ新しく生まれておらず、イエス・キリストを信じる信仰による救いに至っていないなら、神の恵みがあなたの人生に働くために、過去の人生でのあまりの腐敗や頑なさが乗り越えられない障壁となっているなどと、絶望に沈んではいけません。神は喜んで、最も罪深い罪人を救うことによって、ご自身の恵みがいかに自由なものであるか大きく現そうとしておられるのです。
罪から立ち返り、主に叫び求めましょう。この日々のデボーションの中でさえ、あなたが今これを読んでいる、または聴いているとき、神は恵み深く、わたしのあわれみを受けるために近づきなさいと、あなたを力強く促しておられます。
「さあ、来たれ。論じ合おう。——主は言われる——/たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、/雪のように白くなる。/たとえ、紅のように赤くても、/羊の毛のようになる」。 (イザヤ1:18)
「さあ、来たれ。論じ合おう。——主は言われる——/たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、/雪のように白くなる。/たとえ、紅のように赤くても、/羊の毛のようになる」。