10月6日 第280日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 10月 06日 - この記事は約2分で読めます。
健全な教え……祝福に満ちた[つまり、幸いな]神の、栄光の福音によれば…… (テモテへの手紙第一1:10-11)
健全な教え……祝福に満ちた[つまり、幸いな]神の、栄光の福音によれば……
神の栄光の大きな一部分は、神の幸いです。
使徒パウロにとって、神がすべてにおいて栄光に満ちていながら無限の喜びを拒絶されるなど、考えられないことでした。無限に栄光に満ちているということは、無限に幸いであるということでした。パウロは「祝福に満ちた[幸いな]神の栄光」という表現を使いました。なぜなら、神が本来あるべき幸いに満ちておられること——無限に幸いであられること——は、栄光に満ちたことであるからです。
神の栄光には、実際、私たちがどれだけ想像を膨らましても到底及ばないほどの幸いがそこにあります。
これが福音です。「祝福に満ちた[幸いな]神の、栄光の福音」 聖書にこう書いてあるのです! 神が栄光に満ちて幸いであるとは、なんと良い知らせでしょうか。
誰も、不幸せな神と永遠を過ごしたいとは思わないでしょう。神が不幸せなら、福音の辿り着くところも不幸せです。それは福音(良い知らせ)が存在しないことになります。
しかし、実際、イエスは「主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25:23)と、幸いな神との永遠に私たちを招かれました。イエスは、ご自分の喜び——神の喜び——が私たちのうちにあるために、そして私たちの喜びが満ち溢れるために、生きて死なれました(ヨハネ15:11; 17:13)。ですから、福音は「祝福に満ちた[幸いな]神の栄光の福音」なのです。
神の幸いは、何よりも第一に、御子に対する幸いです。したがって、私たちが神の幸いにあずかるとき、私たちは御父が御子に対して抱いておられるその喜びにあずかっているのです。
イエスが私たちに御父を知らせてくださったのはこのためです。ヨハネの福音書17章の壮大な祈りの最後に、イエスは御父にこう祈られました。「わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです」(ヨハネ17:26)。イエスは神を私たちに知らせてくださいました。それは、御子に対する神の喜びが私たちのうちにあるため、そしてその喜びがイエスにあって私たちの喜びとなるためです。イエスの臨在の中で私たちが永遠の喜びを得るために、私たちを保ってくださる愛です。