10月12日 第286日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 10月 12日 - この記事は約2分で読めます。
「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。」 (使徒の働き17:24-25)
「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。」
私たちは神の必要を満たすことで神をほめたたえるのではなく、神が私たちの必要を満たしてくださるよう祈り、その答えを信頼し、すべてを満たしてくださる神の守りの中にあることを喜び、私たちが他の人々のために愛をもっていのちを献げて生きることで、神をほめたたえます。
これこそ、クリスチャン快楽主義の福音の中心です。神は私たちが神に助けを求めるよう願っておられます。それによって、神が栄光を受けられるからです。「苦難の日に/わたしを呼び求めよ。/わたしはあなたを助け出し/あなたはわたしをあがめる」(詩篇50:15)。これは、私たちに驚くべき事実を突きつけます。それは、神が私たちを必要としているという考えに、私たちは気を付けなければならないということです。私たちは、神に仕えることに気を付けなければなりません。神が私たちのために仕えてくださるように注意を払うべきです。そうしなければ、私たちは神の栄光を盗み取ることになるからです。「[神は]何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません」(使徒17:25)。
何とも奇妙に聞こえるでしょうか。神に仕えることは、まったくもって良いことだと考える人がほとんどでしょう。神に仕えることが神に対する侮辱になりかねないなど、考えたことがないかもしれません。しかし、祈りの本当の意味について黙想するとき、これが明らかになります。
小説『ロビンソン・クルーソー』の主人公は、無人島に立ち、彼の好きな詩篇50篇12-15節のみことばを心の支えにしていました。神は言われます。「たとえ飢えても わたしはあなたに言わない。/世界とそれに満ちるものはわたしのものだ。/……/苦難の日に/わたしを呼び求めよ。/わたしはあなたを助け出し/あなたはわたしをあがめる。」
つまり、私たちの仕える方法によっては、神が私たちの助けを必要としているかのように神を軽視することになりかねないということです。何ということでしょうか。私たちはキリストにある神の偉大な恵みを先取りしないように、慎重でいなければなりません。イエスは言われました。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」(マルコ10:45)。イエスは自らが仕える者であることを願っておられ、与える者として栄光を受けることを求めておられるのです。
{※クリスチャン快楽主義(Christian Hedonism)とは何か}