10月19日 第293日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 10月 19日 - この記事は約2分で読めます。
いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。私たちはキリストのからだの部分だからです。 エペソ人への手紙5:29-30
いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。私たちはキリストのからだの部分だからです。
最後の一文を心に留めてください。「私たちはキリストのからだの部分だからです。」 そして、パウロが二節前に語った言葉も忘れてはいけません。キリストがご自身を献げられたのは「栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです」という言葉です。つまりパウロは、二つの言い方で、キリストはご自分の民のきよさと美しさと幸せを追い求めることでご自身の喜びを追い求められたということを明確に示しているのです。
キリストと、キリストの花嫁との結合は、密接(「一体」)です。したがって花嫁にとっての益は、キリストにとっての益です。つまり、この箇所を解釈するならば、主がご自分の花嫁を養い育て、きよめて聖なるものとされるのは、そこにご自身の喜びがあるからということは明らかです。
愛の定義によっては、これは愛ではないと言えるかもしれません。愛とは自己利益を考えるものであってはならない、という理由からです。ましてやキリストのような愛、カルバリの十字架の愛はそうでしょう。わたしは、この箇所からそのような愛が語られているのを見たことがありません。
しかし、キリストがご自分の花嫁のためになさることについて、この箇所はそれを明確に愛と呼んでいます。「夫たちよ。キリストが教会を愛し……たように、あなたがたも妻を愛しなさい」(エペソ5:25)。むしろ私たちが自分の倫理観や哲学から愛を定義するより、聖書のことばが愛を定義するままに理解するべきではないでしょうか。この箇所によれば、愛とは、愛する人の聖なる喜びのうちにある、キリストの喜びを追い求めることです。
すると、愛から自己利益を除外するべきではありません。自己利益は、自己中心的な考えとは違います。自己中心とは、人を犠牲にしてでも自分だけの幸せを追い求めることです。
キリストのような愛は、人の幸せのうちに自分の幸せを見出すことです。人を犠牲にするのではありません。むしろ、愛する人の命と純粋さの中でその喜びが満たされるためなら、苦難や死をも厭わないのが愛です。
キリストはこのように私たちを愛されました。そして、私たちもまたこのように互いを愛するよう招いておられます。