創造のみわざに驚嘆する

11月14日 第319日

ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 11月 14日  - 

しかし、「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と言う人がいるでしょう。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、後にできるからだではなく、麦であれ、そのほかの穀物であれ、ただの種粒です。しかし神は、みこころのままに、それにからだを与え、それぞれの種にそれ自身のからだをお与えになります。

コリント人への手紙第一15:35-38

創造のみわざにおいて神がいかに深く関わっておられるかを示す聖書の小さな記述を、私はよく拾い集めています。

コリント人への手紙第一15章38節はその例です。パウロはここで、種がある姿で蒔かれ、別の姿で現れることを、他のすべての「からだ」と異なる「からだ」として表現しています。パウロはこう述べています。「神は、みこころのままに、それにからだを与え、それぞれの種にその種自身のからだをお与えになります」(私[著者]の訳です——原文では、種の「種類」に応じてからだを与えるのではなく、それぞれの種にその種自身のからだを与えると書いてあります!)。

これは、神が一つひとつの種を設計し、それぞれがユニークな植物を生み出すように造られたという、神の深い関わりの驚くべき宣言です(「種」ごとに、ではなく、それぞれ「個々の種」です!)。

パウロはここで進化論を説いているのではありません。そうではなく、神が創造のみわざに深く関わっておられるということをパウロが当然のこととして受け取っているのです。明らかにパウロは、いかなる自然の成長の過程も、神がそれを行わない限り絶対に起こり得ないと考えています。

詩篇94篇9節にも、こう記されています。「耳を植え付けた方が 聞かないだろうか。/目を造った方が 見ないだろうか。」 この詩篇の作者は、神が目の設計者であること、そして神が頭に耳を植え付け、その聞く機能を与えられた方であることを前提としています。

ですから、私たちが人間の目の不思議さや耳の驚くべき構造に驚嘆するとき、私たちは偶然の重なりの結果に驚嘆するのではなく、神の思いと創造のわざと力に驚嘆するのです。

詩篇95篇5節も同じです。「海は主のもの。主がそれを造られた。/陸地も御手が形造った。」 神が陸と海を創造され、今存在している海が「神のもの」と言えるほど、神は創造において深く関わっておられるのです。

しかしそれは、神が無関心に、何十億年も前にすべてを動かし始められたということではありません。むしろ、神は被造物の所有者です。神がそれらを造られたからです。今日においても、それらは神の手による作品であり、創造主としての神の刻印が記されています。まるで絵を描いた人が、それを売るか、人に譲るかしない限り、その絵の所有者であり続けるように——。

私がこれらのことを取り上げたのは、起源に関するあらゆる問題に答えをもたらすためなどではありません。あなたがこの不思議に満ちた世界を観察し、称賛するときはいつも、神を意識し、神を讃え、神に満たされるようになるためです。

聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

THIS ARTICLE HAS BEEN TRANSLATED AND USED WITH PERMISSION FROM DESIRING GOD. THE ORIGINAL CAN BE READ HERE, The Marvel of Creation.
この記事は「DESIRING GOD」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:The Marvel of Creation.