11月21日 第326日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 11月 21日 - この記事は約2分で読めます。
終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒涜し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。 テモテへの手紙第二3:1-2
終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒涜し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。
感謝がないことが、高ぶり、冒涜、そして不服従と繋がっていることに注目してください。
パウロは別の箇所でこう言っています。「また、わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もそうです。これらは、ふさわしくありません。むしろ、口にすべきは感謝のことばです」(エペソ5:4)。つまり、感謝の心、感謝の思いというのが、醜さや暴力の対極にあるということのようです。
その理由は、感謝という感情は高慢なものではなく、へりくだった感情であるからです。感謝は自分を高めず、人を高めます。そして感謝は、怒りや苦々しい心から生まれるものではなく、喜ぶ心から生まれます。苦々しい感謝というのは、その表現自体が矛盾しています。
感謝の心を解き放ち、苦々しさと醜さと無礼と暴力に打ち勝つための鍵は、すべてを創造し、すべてを保ち、すべてを備え、希望を与える神への、確かな信仰です。もし私たちが、自分に与えられているすべてのもの、そしてこれから望むすべてのものが、神から来ているという大きな「負債」の意識を持っていなければ、感謝の泉はすでに枯れてしまっています。
ですから私は、終わりの時代における暴力や冒涜や醜さや不服従などの高まりは、結局のところ、神との関係の問題であると結論づけます。根本的な問題は、私たちの最大の依存の源に対して、感謝の心を忘れてしまうことにあるのです。
山の高みから湧き出る神への感謝の泉が損なわれたら、山の裾野に広がるすべての水場はあっという間に干上がってしまうでしょう。そして、感謝が失われると、自分自身を主としようとする心が、快楽のためにますます堕落を許すようになるのです。
どうか、へりくだった感謝の心への大いなる目覚めが起こりますように、祈りましょう。