11月29日 第334日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 11月 29日 - この記事は約2分で読めます。
まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。 ヘブル人への手紙9:14
まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。
私たちは近代的な時代を生きています。インターネット、スマートフォン、宇宙旅行、心臓移植の時代です。しかし、私たちの根本的な問題は、何も変わっていません。それは、良心が私たちを責め、神に受け入れられない存在だと思わせることです。私たちは神から離れてしまいました。その事実を良心が証ししているのです。
私たちは自分の身体を傷つけたり、子どもたちを聖なる川に投げ入れたり、慈善事業に一億円を寄付したり、炊き出しのボランティアをしたり、何百通りもの懺悔や自傷行為を繰り返したりすることもできます。しかし、結果は同じなのです。しみは消えず、死はなおも私たちを怯えさせます。
私たちは、自分の良心が汚れていることを知っています。それは、死体に触れるとか、汚れたおむつを取り替えるとか、豚肉に触れるといった外面的なものではありません。イエスは、外から入るものではなく、人の中から出てくるものが、人を汚すと言われました(マルコ7:15-23)。私たちは、高慢、自己憐憫、敵意、情欲、ねたみ、嫉妬、貪欲、無関心、恐れといった態度によって汚れます。
この近代的な時代において、あるいはどの時代においても、ただ一つの答えはキリストの御血です。あなたの良心がうずき、あなたを責め立てるとき、どこに目を向けるべきでしょうか? ヘブル人への手紙9章14節は答えを与えてくれます。「まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。」
答えは、キリストの御血に目を向けることです。この宇宙で唯一、人生の安らぎを与え、死においても平安をもたらす、きよめの力に目を向けましょう。