十字架における勝利の辱め

11月30日 第335日

ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 11月 30日  - 

それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストはご自分を何度も献げるようなことはなさいません。もし同じだとしたら、世界の基が据えられたときから、何度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。

ヘブル人への手紙9:25-26

天国で罪人が迎えられるということについて、これを当たり前のように考えてはいけません。

神は聖なる、清い方であり、完全に義であり、正しい方です。それにもかかわらず、聖書全体の物語は、そのようなすばらしい聖なる神が、私たちのような汚い、きよくない者を、神に喜ばれる者として受け入れてくださることを語っているのです。どうしてそんなことが起こるのでしょうか?

ヘブル人への手紙9章25節を読むと、キリストの罪のためのいけにえは、ユダヤ人の大祭司の献げるいけにえのようではなかったと書かれています。大祭司は一年に一回、動物のいけにえを携て聖所に入り、民の罪の贖いのためにそれを献げました。しかしこの箇所は、キリストは「ご自分を何度も献げる」ために天に入られたのではないと述べています。もしそうだとしたら、「世界の基が据えられたときから、何度も苦難を受けなければならなかったでしょう」(ヘブル9:26)。

もしキリストが大祭司と同じことをしていたなら、キリストは毎年死ななければなりませんでした。さらには、この贖いにはアダムとエバの罪も含まれているので、キリストはこの年ごとの死を世界の基が据えられたそのときから始めなければならないでしょう。しかし、ヘブル人への手紙の著者は、そんなことは到底考えられないことだと言います。

なぜ考えられないことなのでしょうか? それは、もしそうならば、神の御子の死はもはや弱くて効果のないものになってしまうからです。何世紀にもわたって毎年毎年繰り返さなければならないなら、勝利はどこにあるのでしょうか? 私たちは一体どこに、神の御子の犠牲にある無限の価値を見出すことができるのでしょうか? 年ごとに繰り返される苦難と死の辱めの中で、そんなものはかき消されてしまうでしょう。

十字架は辱めを伴いました。しかしそれは、勝利の辱めだったのです。「[イエス]は、……辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです」(ヘブル12:2)。

これが、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音です(IIコリント4:4)。今あなたがどれだけ自分の罪で汚れ、きよくない状態であろうと、あなたがこの栄光の光を見て、それを信じることを祈ります。

聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

THIS ARTICLE HAS BEEN TRANSLATED AND USED WITH PERMISSION FROM DESIRING GOD. THE ORIGINAL CAN BE READ HERE, The Triumphant Shame of the Cross.
この記事は「DESIRING GOD」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:The Triumphant Shame of the Cross.