2月11日 第42日
ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 02月 11日 - この記事は約2分で読めます。
主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。 (コリント人への手紙第一7:22)
主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。
パウロはここで、主人を意味する「主」とメシアを意味する「キリスト」を逆に使うべきなのでは、と私は思いました。
パウロは、私たちの解放を私たちの主人としてのイエスと結びつけ(「主に属する自由人」)、新しい奴隷を私たちのメシアとしてのイエスと結びつけています(「キリストに属する奴隷」)。これはどうも不思議です。なぜなら、メシアは人々を縛りつける者から解放するために来たのであり、主人は自分の奴隷のいのちに対する権利を握る存在であるからです。
なぜパウロはこのように言ったのでしょうか? なぜ、(解放ではなく)奴隷をメシアと結びつけ、(奴隷ではなく)解放を主人と結びつけたのでしょうか?
このように考えることができるかもしれません。パウロの言葉は、私たちに与えられた新しい解放の状態に2つの効果を、また新しい奴隷の状態に2つの効果をもたらすのです。
私たちを「主に属する解放された者(自由人)」と呼ぶ場合、パウロはその新しい解放を保証し、制限を与えています。
一方で、私たちを「キリストの奴隷」と呼ぶ場合、キリストはその奴隷状態を緩和させ、甘いものにしてくださいます。
ですから、クリスチャンのみなさん、喜びましょう。「主にあって召された奴隷は、主[すなわち、主人]に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリスト[すなわち、緩和させ甘くしてくださるメシア]に属する奴隷だからです。」