復活の過激な力

2月27日 第58日

ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2024年 02月 27日  - 

もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。

(コリント人への手紙第一15:19)

パウロは、絶えず危険にさらされ、日々死に、獣と戦ったのに、もし死からのよみがえりがないなら、イエスに従うことを選んだ彼の人生は実に愚かで哀れなものだ、と結論づけました。

パウロは、死んですべてが終わりなのであれば、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」と言います(Iコリ15:32)。これは、復活がないのなら大食漢の大酒飲みになろう、という意味ではありません。大酒飲みも、復活があろうとなかろうと、同じように哀れです。パウロが意味したのは、もし復活がないなら、この世の快楽を最大にするには中間層の節制が理にかなっているということです。

しかし、パウロはそれを選ばず、苦難を選びました。それは、従順を選んだからです。ダマスコへの途上でキリストに出会ったパウロのもとに、アナニアは主イエスから受けた言葉をパウロに告げにやって来ました。「彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します」(使徒9:16)。そしてパウロは、この苦難を自分の召命の一部として受け入れたのです。

どうしてパウロは受け入れることができたのでしょうか? このような過激な、痛みを伴うような従順は、どこから来るのでしょうか? 答えは、コリント人への手紙第一15章20節にあります。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」 つまり、キリストはよみがえられ、私たちもまた、キリストとともによみがえるのです。したがって、イエスのための苦難は無駄ではありません(Iコリ15:58)。

復活の希望は、パウロの生き方を劇的に変えました。物質主義や消費主義から解放され、多くの人がこの世で手に入れなければならないと感じるような安らぎや悦びがなくとも、前に進むことのできる力を得ました。例えば、パウロは結婚する権利はありましたが(Iコリ9:5)、その悦びをあえて放棄しました。それは彼が、多くの苦難に耐えるよう召されていたからです。

イエスもまた、復活の希望は私たちの振る舞いを変えることを教えられました。例えば、イエスは、生きているあいだにお返しをすることができない人々を家に招きなさい、と教えておられます。このような行為の動機は、どこから得られるのでしょうか? 「あなたは、義人の復活のときに、お返しを受けるのです」(ルカ14:14)。

これは私たちに与えられている、過激な召しです。私たちは今の生き方をよくよく見つめ、それが復活の希望によって形づくられているかどうか、しっかりと見極めなければなりません。決断を下すとき、この世の益か、次に来る世の益か、どちらを基準に決めているでしょうか? 復活を前提とすれば賢明だと言えるようなリスクを、愛のために負っているでしょうか?

どうか神が、私たちの献身を新たにしてくださいますように。復活がその過激な力を発揮する人生を、私たちが送ることができますように。

 聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

THIS ARTICLE HAS BEEN TRANSLATED AND USED WITH PERMISSION FROM DESIRING GOD. THE ORIGINAL CAN BE READ HERE, Radical Effects of the Resurrection.
この記事は「DESIRING GOD」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます: Radical Effects of the Resurrection