明治時代に起きたリバイバル 

ブレット・レイル(著者)、ブラッシュ・木綿子(翻訳)-  2024年 02月 27日 - 

世界で最も福音の届いていない人々はどこにいると思いますか。私が住み、奉仕している日本が、実は世界で2番目に福音の届いていない人々のいる場所です。

「福音の届いていない人々(民族)」とは、福音的な信仰をもっているクリスチャンが人口の2パーセント未満の人々のことです。福音の届いていない人々は、宣教の働きを最も必要としています。このようなグループ分けは宣教の必要を判断する上では有益ですが、そのような人々の間で行われる神の贖いのみわざの全貌を、そこから知ることはできません。福音が届いていないと言っても、クリスチャンがまったくいないわけではないし、そこに存在する小さくても忠実な教会に、神の主権による救いのみわざの驚くべき歴史があることだってあるのです。日本はその素晴らしい例です。日本の贖いの歴史は今まであまり取り上げられて来ませんでしたが、私たちの心に刻まれるべきものだと言えるでしょう。

詩篇105篇1節から6節は、神の偉大さを諸国の民の間に知らせること(1節)は、神の奇しいみわざを覚えること(2, 5節)と感謝をもって応答すること(1節)と深く関わっていると教えています。固い土壌(難しい宣教地)として知られる場所で、神がどのように力強く働いてくださったかを思い起こすとき、私たちは感謝と礼拝に導かれます。そしてそれが今度は、不可能と思われるところでも宣教で前進するための新しい力と示唆を私たちに与えるのです。

はじめの動き

プロテスタントの宣教師が最初に日本にやって来たのは1859年でした。それまで日本の国境は西洋に、特にキリスト教に閉ざされていました。1603年に始まった激しい迫害により、それまで大きな影響を及ぼしていたローマカトリックの宣教師は国外に追放されました。1859年に宣教師たちが来日した際も、キリスト教を禁止する高札は依然掲げられたままであり、福音に耳を傾けてもらうことは非常に困難でした。イエスの名を口にするだけで、日本人は指を喉に滑らせ、その話題が危険なことを示しました。それでも宣教師たちは言葉を学び、教育や医療を通して人々に奉仕するなど、独創的な宣教の道を探りました。

『このリバイバルは信徒たちが悔い改め、涙を流すことから始まり、やがて彼らは喜びと愛に圧倒されるに至りました。』

1872年の初め、宣教師と日本に滞在していた外国人クリスチャンが、横浜で一週間の祈祷会を開催し、そこにノンクリスチャンの日本人学生も数名参加しました。集まった人たちは毎日、使徒の働きを一箇所読み、ともに祈りました。祈っていると、聖霊が力強く働き始めました。この祈祷会に出席した人たちは、その週が終わった後も集まり続けることを決めました。二週目が終わるころには、日本人の学生たちは、その多くは誇り高い武士の家の出身でしたが、初代教会に聖霊が臨まれたように、日本にも聖霊が臨んでくださるようにと、涙ながらに神にひざまずいて叫んでいました。

学生のうち9人はまもなくキリストへの信仰を告白し、1872年3月10日に、日本で最初のプロテスタント教会員となるべく洗礼を受けました。9人のうち2人はスパイ目的の仏教徒ですぐに離れていきましたが、残りの7人は新たに回心した他の学生たちとともに「横浜バンド」を結成しました。

兄弟たちの連帯

同じような動きがその後も1870年代を通じて起こり、特に熊本と札幌で顕著でした。熊本では、南北戦争の退役軍人であったL.L.ジェーンズ大尉が洋学校を設立しました。ジェーンズは強い宣教の意図を持って熊本に行ったわけではありませんでしたが、数年間学校の少年たちを指導して絆を深めたのちに聖書研究会を始め、学生たちは揃ってその会に参加しました。ジェーンズの説いた福音は日本の西洋化を願う思いが混ぜられたものでしたが、それでも彼のメッセージは少年たちに大きな影響を与えました。数名の学生が回心し、ジェーンズは毎週の礼拝と祈祷会も行いました。

やがて信仰をもった日本人学生たちが、未信者の同級生に伝道するようになり、1876年1月30日、30人以上の学生が花岡山に集まりました。彼らはともに「主我を愛す」(日本語に翻訳された最初の讃美歌)を歌い、日本帝国の啓蒙のためにキリスト教信仰を宣べ伝えるという誓いを立てました。彼らは「熊本バンド」を結成して山から下り、後にその多くが有力な政治家、実業家、牧師となっています。

もう一人の南北戦争退役軍人、ウィリアム・S・クラーク大佐は、1876年、北海道の札幌農学校設立に尽力しました。ジェーンズ同様、クラークも宣教師として赴任したわけではありませんでしたが、8ヶ月の日本滞在中、学生たちを招いて定期的に聖書を学び、彼自身の信仰が新たにされる経験をしました。生徒の多くはクリスチャンとなり、クラークは生徒全員にイエスに従う意思を表明する誓約書に署名させました。ある者は新しい信仰への熱意から、またある者は仲間の学生からのプレッシャーからでしたが、全員が署名するに至りました。当然のことながら、そのうちの半数はクラークが去った後すぐに転向しました。しかし、残りの半数は洗礼を受け、札幌バンドを結成し、その中には日本の著名なキリスト教思想家である内村鑑三や新渡戸稲造もいました。

こうした信仰者によるバンドの結成は、これから起こるさらに大きな動きの初穂だったのです。

「私たちの只中でなされる奇しいみわざ」

1883年、日本全国から宣教師が大阪に集まり、日本人クリスチャンも加わって大規模な宣教会議が開かれました。この会議では、クリスチャンがともに一致することの力、神に拠り頼む祈りの力が強調され、これに触発された日本のクリスチャン指導者たちが大阪で独自の会議を開催し、京都や東京でも同様の会議が開かれるようになりました。会議のあった各都市で多数の祈祷会が生み出され、こうした祈祷会はしばしば一度に数週間も続き、リバイバルを引き起こしました。日本人クリスチャンたちは、横浜で最初に回心した人たちのように聖霊の降臨を叫び求め、神はその祈りに応えられました。日本全国で数多くのリバイバルが起こり、日本人のクリスチャンと宣教師の中で悔い改めと刷新がもたらされました。

『私たちには、神が再びこのような熱心な祈りを聞き入れ、応えてくださると待ち望む理由があるのです。』

英国聖公会宣教協会 (CMS) のチャールズ・F・ワレンは、「今年、神の祝福が恵み深く日本各地に降り注ぎました」1 と述べ、日本の教会におけるより大きな愛と一致につながるリバイバルについて語りました。アメリカのメソジスト監督教会の宣教を率いたロバート・マクレイは、次のように述べています。「主の臨在によってもたらされる宗教的なリバイバルの精神、新しい風が日本中に広がっています。これは外国人居住者の間でも、日本人クリスチャンの間でも見られ、……神の恵みが魂の回心という目に見える形で現れるのを、私たちはもうすぐ目撃することになるでしょう」2

長崎では60年余り後に原爆が投下されることになりますが、CMSのC.S.ロングも同様に当地の「輝かしいみわざ」3 について述べています。「多くの人が真に回心し、新しい宗教の真実と力を証ししています。……主はまことに、私たちの只中で奇しいみわざをなしておられます。この知らせは町中に広まり、何百人もの人々が教会に押し寄せています。……これは本当に驚くべきことです。故郷でこれほど目を見張るものを見たことはありません」4

日本人による収穫

日本人牧師たちも同じような証しをしました。熊本バンド出身で、組合派(会衆派)教会の指導者だった小崎弘道は、一週間の祈祷会の後、横浜で大きなリバイバルが始まったことを語りました。同志社大学の創立者である新島襄は、新潟の安中という小さな町で始まったリバイバルについて語りました。このリバイバルは信徒たちが悔い改め、涙を流すことから始まり、やがて彼らは喜びと愛に圧倒されるに至りました。

仙台、福島、神戸、岡山など、日本各地からリバイバルの報告が届きました。宣教師や日本人伝道者たちは、劇場を貸し切り、一度に何百人もの人を相手に宣教や教えの行事を行うようになりました。1883年5月には、東京の久松劇場で数日間にわたって宣教礼拝が行われ、計4,000人が出席しました。日本各地のキリスト教学校でもリバイバルが起こり、同志社大学では1884年3月、1回の祈祷会で200人の学生が洗礼を受けました。

1880年代のリバイバルの結果、日本の平均教会員数は倍増し、新しい地域に教会が建てられ、日本人による宣教のための献金が増え、日本人クリスチャンが教会を指導するようになりました。この時期の実りは豊かで、宣教師の中には日本が100年以内にキリスト教国になると期待する者もいたほどです。

追憶から使命遂行(宣教)へ

悲しいことに、このような期待が現実になることはありませんでした。神は他の時期にも日本の教会を成長させてくださいましたが、日本のクリスチャン人口は依然として少ないままです。けれども、神が過去にどのように働かれたかを見ることができるのは素晴らしいことであり、宣教師を送る側も行く側も、この歴史から学べることがいくつもあります。

第一に、日本は頑なに福音に対して冷たいと思えるかもしれませんが、神は過去にこの地で力強く働かれたのであり、また今後そのようになさるのであれば、神を止めることはできません。第二に、使徒の働きに書かれている初代教会のように、日本の教会は特定の伝道方法やカリスマのある指導者によって生まれたのではなく、祈りによって生まれました。私たちには、神が再びこのような熱心な祈りを聞き入れ、応えてくださると待ち望む理由があるのです。

最後になりますが第三に、こうしたリバイバルの動きは日本人の中だけでなく、宣教師の中でも起こりました。宣教師が日本にリバイバルを起こすことはできません。けれども、日本の兄弟姉妹とともに、神がどのように過去に働いてくださったかを思い起こし、再びこのようなリバイバルを起こしてくださいと祈り求めることはできるのです。

脚注

[1] Ritter, H. A History of Protestant Missions in Japan (Edited by D.C. Greene. Translated by George E. Albrecht. Tokyo: The Methodist Publishing House, 1898), 108.

[2] Ibid, 109.

[3] Ibid, 109.

[4] Ibid, 109.


This article has been translated and used with permission from Desiring God. The original can be read here, Even Japan Has Seen Revival.
この記事は「Desiring God」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Even Japan Has Seen Revival