アタナシオスとその重要性

ライアン・リーブス(著者)、ブラッシュ・木綿子(翻訳)-  2023年 03月 14日 - 

アタナシオスはいつの世にも人々に愛された神学者ですが、最近は彼を悪く言う人が増えています。神学的な理由でアタナシオスに怒っている人もいます。アタナシオスが、異端を唱える聖職者は破門されるべきだと考えていたからです。文化的な理由で怒っている人もいます。アタナシオスの著作が厳しい論調で、怒っているような書き方だからです。とは言え、アタナシオスの書き方は、同じ時代の他の著者と大差ありません。ですからこの記事では、アタナシオスの神学的な考えに焦点を当て、彼の真相に迫りたいと思います。

アタナシオスの生涯

アタナシオスは290年代にアレクサンドリアで生まれました。アレクサンドリアは文化的に重要なローマ帝国の都市で、教育の中心地、東方の食糧庫でした。様々な哲学の学園と、伝説的なアレクサンドリア図書館があったため、アレクサンドリアには異教からもヘレニズムのユダヤ教からもキリスト教からも知的指導者が集まるという、とても珍しい都市でした。

彼の学歴や家族についてはほとんどわかっていません。私たちがアタナシオスについて知っている最も古い具体的な情報は、彼がアレクサンダーという、アレクサンドリアの主教になるのにぴったりの名前の主教に仕えたことです。アタナシオスはアレクサンダーのもとで執事として神学を学び、牧会の訓練を受け、やがて秘書として仕えるようになりました。アリウス主義との闘争が盛んになったとき、アタナシオスは主教と行動を共にして支えました。

ですから、アリウス派の論争が起こったときは、アタナシオスはまだ補佐的な役割をしていたのです。それはニカイア公会議の後まで同じでした。アタナシオスは後にアレクサンダーの後を継いでアレクサンドリアの主教となります。アリウスの論点を支持する動きが続く中で、力強く正統的キリスト教の神学を擁護したアタナシオスの名声は高まりますが、これは彼が主教になってからのことです。アタナシオスのほぼすべての著作はニカイア公会議の後に書かれ、これらはニカイア信条の正統性を明確にし、擁護し、奨励するために用いられました。

アリウス派論争

アリウス主義は、何もないところから突然湧いて出た哲学ではありません。この思想は、一方ではそれ以前に主張されていた異端に対する反論として、また他方ではもともとあった神学的考えの文脈の中で生まれました。

『アタナシオスの残した遺産は、子と父を同じとするのは意味をなさないと考える人たちに対して、子の神性(また、その延長上にある聖霊の神性)を勇敢に弁証した努力だと言えるでしょう。』

2世紀に主張されていた最も早い時代の異端のひとつに、今日「様態論」と呼ばれているものがあります。様態論の中心は、父、子、聖霊をひとつの存在とすることによって、三位一体を語る際の用語の問題を解決しようとしたことです。つまり、聖書で三位一体の神の各位格が語られるとき、それは神がご自身を啓示する際の仮面、あるいは様態だとしたのです。神はあるときは父として、あるときは子として、またあるときは聖霊として顕れるのですが、これらの様式の間に実質的な違いはなく、神はひとつだと主張しました。

この主張は論理的に聞こえるかもしれませんが、問題があります。これでは聖書の自然な読みができなくなるからです。十字架の上でイエスが父に叫ばれたり、イエスの洗礼で父が子に語ったり、イエスが父に祈ったりする場面が、茶番に過ぎなくなってしまいます。神は自分に向かって叫び、なぜ見捨てたのかと自問していることになりますし、イエスは父ではなく自分自身に祈っていることになるからです。

この「様態論」を却下した後、多くの神学者がどのような用語を使えば、父、子、聖霊を区別するのに役立つかを考えました。彼らは神が3人おられると信じていませんでしたが、人々が様態論に陥らないように区別する必要を感じたのです。そこで彼らは父は子ではなく、子は父ではないということを強調しました。

アリウスがアレクサンドリアで教え始めたとき、彼も「反様態論」の陣営にいました。しかし彼の用いた用語は逆の問題を生じさせました。アリウスは父だけが真の神であって、子は父によって造られた最初の最も偉大な被造物であると主張したのです。父と子という用語を用いるのであれば、こう考えるのは筋が通っているとアリウスは考えました。父が子を生むのであり、父と子が同じ存在だと考える人はいないからです。しかしアリウスの説明では、子は常に存在していたわけではなく、造られた存在だということが強調されました。言い換えれば、子は本当に神だったのかという問いに対して、アリウスは「いいえ」と答えたということです。子は、救いを達成するために神によって造られた被造物です。子は神よりも私たち人間に近い存在ということになります。

とうとうアリウスの教えは論争に発展しました。この論争はアレクサンドリアから始まって、帝国の東側の地域に広まっていきました。そして遂には、この問題を解決するために公会議を開く必要がでてきたのです。

ニカイア公会議(紀元325年)

ニカイア公会議は、教会が重要な論争を決着するために集まった最初の公会議ではありません。使徒の働き15章1-35節にもこのような集まりが書かれています。ニカイア公会議が特別なのは、皇帝コンスタンティヌスによって招聘され、キリスト教圏として知られているすべての場所から主教が集められた点です。ニカイア公会議は地方で開かれた局所的な会議ではなく、神学の問題に普遍の回答を提示することを目指した、大規模な会議だったのです。

『イエスはこの世に来られた神ご自身であって、仲介役の被造物ではありません。』

公会議ではアリウスとアレクサンダー双方の主張が述べられました。ただ、論争がどう転ぶかわからないという状況ではなかったようです。 参加した多くの人がアリウスの神学を知らなかったので、審議の一部はアリウスが実際に何を教えているのかを理解することに費やされました。最終的には、子は被造物であるとするアリウスの主張が退けられ、公会議は、子は「造られずして生まれ、父と本質において同じ」であると宣言しました。

公会議でアタナシオスが重要な役割を果たし、信条作成にも携わったと考えられることが多いですが、事実はその反対です。公会議でのアタナシオスの役割は非常に限定的なものだったでしょう。彼はまだ主教アレクサンダーの秘書だったので、信条を作成するどころか、口を開くことも恐らく許されていなかったでしょう。

しかしながら、アタナシオス本人は、公会議でのアリウスとその教えに対する論争を聞くことによって大きな影響を受けたはずです。公会議に出席していた多くの人と同じように、アタナシオスも子を被造物とすることから派生する問題をよく理解しました。子が被造物であれば、子は私たちの主にも救い主にもなり得ないわけです。ですから、公会議が終わった後も帝国の東でアリウス主義が台頭していく中で、アタナシオスは三位一体の正統の教義を普及させることに尽力しました。

神学者アタナシオス、主教アタナシオス

アレクサンダーが亡くなった後、328年5月9日に、アタナシオスはアレクサンドリアの主教に選ばれました。しかしながら、彼の就任直後からひと騒動ありました。というのも、アタナシオスは教会の基準で定められた主教の年齢に達していなかったからです。また彼はニカイア信条反対派の標的にされました。彼らは父と子は本質において同じであるとするニカイア公会議の結論を認めませんでした。それに加えてアタナシオスは、帝国の東側を治めていたコンスタンティヌスの息子とも対立しました。アタナシオスは敵陣営からよく「分裂をもたらす怒りっぽいチビ主教」と揶揄されました。

アタナシオスは5回もアレクサンドリアから追放されました。にもかかわらず、子の神性を主張し続ける彼の姿勢は揺らぐことがありませんでした。アタナシオスの著作で最も有名な『神のことばの受肉』【『言(ロゴス)の受肉』とも訳される】は、受肉そのものよりも、受肉前の子の神性について語っています。

アタナシオスの残した遺産は、子と父を同じとするのは意味をなさないと考える人たちに対して、子の神性(また、その延長上にある聖霊の神性)を勇敢に弁証した努力だと言えるでしょう。アタナシオスにとってこの問題は抽象的な論理ではなく、聖書の自然な読みでした。イエスはこの世に来られた神ご自身であって、仲介役の被造物ではありません。ですから私たちは神はおひとりであることを信じますが、その神は三位一体の神であって、3つの位格で互いに関わっておられると理解するのです。私たちは被造物や人を礼拝するのではなく、人となった神ご自身を礼拝するのです。


This article has been translated and used with permission from The Gospel Coalition. The original can be read here, Who was Athanasius and Why Was He Important?.
この記事は「The Gospel Coalition」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Who was Athanasius and Why Was He Important?