キリストのからだによる日々の介入
神との歩みが共同プロジェクトであるというのは本当です。現代の教会の中でよく見られる、分離独立した一匹狼的な「イエスと私」という宗教は、新約聖書に書かれている宗教ではありません。私たちの多くが、事実上、人に知られずに生きていると言っても過言ではありません。そして私たちは、「知っている」と思っている人たちのことを実際には知りません。私たちの多くが、果てしなく続くうわべだけの人間関係の中に生きており、そこでの会話が天気、食べ物、政治、自分の子どもが最近したかわいいこと以上に深まることはありません。私たちが「交わり」と呼んでいるものの多くは、謙虚に自分のうちを明かして互いに奉仕し合うという、本当に価値のある交わりのレベルには達していないのです。私たちが交わりと呼ぶものの多くは、居酒屋での集まりと大差ないということです。これなら、「交わり」などと言わないで、「食事会」とか「飲み会」と言えば良いのです。「教会の夕食でも、どうせほとんど交わりがないんだから、無理して来なくていいんですよ」と言えば良いのです。
へブル人への手紙3章12-13節に、神が私たちのうちで始められ、今も続けておられるみわざのためには、共同体が不可欠であることが書かれています。「兄弟たち。あなたがたのうちに、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。『今日』と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい」
なぜ私は、毎日キリストのからだに介入してもらわないといけないのでしょうか。その答えは簡単です。そして私たちを謙虚にさせます。私に教会の働きが毎日必要なのは、私が盲目だからです。私は自分のことが見えているし、よく知っていると言いたいですが、これは事実ではありません。罪が私を盲目にさせるので、私のうちに罪がある限りは、私の自己認識に盲点があるということです。これは実はとても深刻な事態です。というのも、肉体的に盲目の人は自分が盲目であることを知っているのですが、霊的に盲目の人は、自分の盲目に気づいていないからです。実際見えていないのに、自分は見えていると思っているからです。
あなたはどうでしょうか。自分にキリストのからだが日々必要であることを認め、受け入れていますか。あなたを知っている人は誰でしょう。目の役割を果たしてくれるようにと、自分のプライベートな空間にまで招き入れた人はいますか。このように尋ねられたら、名前を挙げて答えられますか。あなたのことをよく知っている人が、あなたの罪や弱さ、失敗を指摘してくれたとき、感謝していますか。それとも、ムッとして、どのように自分を守ろうかと考えながら、耳を赤くしていますか。個人的なことを聞かれたとき、答えをうまくはぐらかすことに長けていますか。それとも、神が日々与えてくださるこうした助けを、喜んで受け入れていますか。恐れたり恥ずかしがったりすることはないのですよ。これは神が与えてくださっている、あなたを赦し、救い、変え、解放してくれる、恵みの道具なのですから。
この記事はポール・デービッド・トリップ著「365日の恵み浴」からの抜粋です。
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