結婚で大事なのは自分ではない

ジョナサン・C・エドワーズ(著者) 、ブラッシュ木綿子(翻訳) - 2023年 03月 28日  - 

「天国に行きたい。でも死にたくはない」という意見が多いようです。私は結婚においてもこれと同じような現象が起こっていると思っています。

結婚は尊い賜物であり、驚くべき祝福です。私たちの多くが結婚の喜びを経験したいと願っているのもうなずけます。結婚願望のある人は大勢いますが、いざ結婚となったときに結婚のすべてを受け入れる準備ができている人は少ないようです。映画やドラマで見る幸せな結婚シーンを夢見、願い、憧れますが、自分の欲求や自由が脅かされることは拒否する人が多いのです。

多くの人が、結婚で大事なのは自己満足であり自己犠牲ではないと、知らず知らずのうちに信じるようになっているのです。

必死に愛を求める

使徒パウロはこれとは異なる結婚のあり方をエペソ人への手紙の中で描写しています。結婚は本来、自己中心的な結びつきではなく、自己を捨てる結びつきであることをパウロは説明しています(エペソ5:22-27)。結婚の中心にあって両者を引き寄せるのは、自己満足ではなく、自己に死ぬことなのです。私たちが結婚についてのこの教えをあまり耳にしないのは、恐らくこれを実践するのが非常に難しいからでしょう。テレビや映画で描写される結婚や私たちの肉の欲が自然に求める結婚は、単に自分の願いが満たされる結婚、自己実現の夢が叶う結婚、自分の力不足や欠点が覆われる結婚です。

『夜の室温設定のように些細なことから、夫婦の性的な営みがうまく行かない場合に忍耐深くあるといったような深刻なことまで、すべては相手優先だということです。』

私たちの多くは恋愛とその結果の感情的な結びつきを求めます。注意しなければ、神とみことばに導かれるのではなく、自己中心的な欲望のままに結婚へと突き進んでしまうでしょう。私たちは自分の必要を満たしてくれ、自分の夢を叶えてくれる相手、つまり、自分にとって完璧な配偶者が見つかったら結婚するのだと考えます。そのような配偶者はこの世界のどこかにいて、私たちがまだ経験したことない形で私たちを満たし、私たちを完全な存在にしてくれると信じています。(このような配偶者を、私たちは失われたパズルのピースだの、失われた環だの、心のもう半分だのと呼んでいます。)こうした願望で結婚を考えるなら、箴言18章1-2節に描写されている人のように、私たちは他人の助言や知恵から自らを閉ざし、正しい判断ができなくなるでしょう。私たちの罪深い欲望が何であれ、私たちは愛を求めるばかりにこのような道を進んでいってしまうことがないよう、祈らなければなりません。

パウロは、キリストにある喜びと他人への思いやりを持つことによって、敬虔な生き方をするように勧めています(ピリピ2:1-4; コロサイ3:12-14; Iテサロニケ4:3-7)。もしすべての人に対してこのような生き方をするべきなのであれば、(未来の)配偶者に対してはなおさらでしょう。

私たちは自分の必要や欲求以上に、配偶者の必要と欲求に注意するように召されています。夜の室温設定のように些細なことから、夫婦の性的な営みがうまく行かない場合に忍耐深くあるといったような深刻なことまで、すべては相手優先だということです。問題が何であれ、自分の肉の欲と戦い、代わりに罪を殺す(コロサイ3:5)ように努めるなら、私たちはもっとキリストが意図された結婚本来の喜びを経験することができるようになるはずです。

自己犠牲の喜び

結婚の真の美しさ、目的、満足は、私たちを完全に、また永遠に満たしてくださる神のご性質を、私たちが反映することにあります。結婚でどのように生きるべきかのもっとも純粋な答えはイエスにあります。私たちの人生は、仕えられるためではなく仕えるために生きるときに花開きます(マルコ10:43-45; ルカ13:14-16)。イエスは、その生と死によって、結婚の中心が自己犠牲であることを示されました。私たちもイエスの模範に従い、自分のいのちを保とうとする代わりに配偶者にいのちを与えなければならないのです(マタイ16:25)。

キリストのように自己を犠牲にすることこそ、結婚の栄光の扉を開く鍵です。保険会社に電話をする、乾燥機の中に放置されている洗濯物をたたむ、油を買いにお店に行くなど、なんでもいいので相手に仕える道を探しましょう。いつものことでも、とっさのことでも、平凡なことでも、想像力を働かせることでも、今すぐのことでも、長期的なことでも、とにかくなんでもです。

より偉大なものを映して

『私たちが配偶者のために自分を犠牲にするとき、自分たちの心に福音の素晴らしさが思い起こされるだけでなく、私たちの結婚がこの世に福音の甘い香りを届けることにもなるのです。』

私たち人間の地上の結婚は、イエスとイエスの花嫁の美しい関係を垣間見せるために、もっと言えば、鏡のように映し出すために存在しています(エペソ5:31-32)。言い換えれば、私たちが結婚においてどう行動するかは、キリストが私たちのためにどのように行動してくださったかを反映していなければならないということです(ヨハネ15:13; ピリピ2:5-8)。私たちが配偶者のために自分を犠牲にするとき、自分たちの心に福音の素晴らしさが思い起こされるだけでなく、私たちの結婚がこの世に福音の甘い香りを届けることにもなるのです。配偶者が自分の願いをことごとく叶えてくれることが結婚の目的ではありません。それはキリストのなさることです。キリストが私たちの必要をすべて備え、私たちを完全に満たしてくださると知っているなら、私たちは自由になって、配偶者のために自分を与えることができるようになります。ジョン・パイパーはこの美しい真理を『This Momentary Marriage(地上の結婚)』という本の中で次のように説明しています。「神は結婚を福音の真理を世界に表すためのものとされました。私たちが結婚するのはそのためです。すべての結婚している人が結婚しているのも、実にそのためなのです」

常に自己満足を求めていても永続する喜びは得られませんし、結婚の真の幸せが失われてしまいます。配偶者のために自己を犠牲にするなら、私たちは結婚の真の光を輝かせることになります。私たちは結婚を、自分のことではなく、もっともっとキリストのことにしていくべきなのです。キリストの驚くべき犠牲が罪人に栄光の贖いをもたらす鍵でした。同じように、私たちの自己犠牲が、結婚に最も大きな喜び、最も深い楽しみ、最も神のみこころにかなった目的をもたらす鍵なのです。

喜びのために、キリストは私たちのためにご自分をお与えになりました(へブル12:2)。あなたが配偶者のために自分を犠牲にするのも、あなたの喜びのためとなりますように。今現在も将来も、自分を注ぎ出し、相手のために自分の権利を手放しましょう。すべてはキリストの栄光のために!


This article has been translated and used with permission from Desiring God. The original can be read here, Your Marriage Is Not About You.
この記事は「Desiring God」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます: Your Marriage Is Not About You