相手のしたことを忘れることができないなら 私は本当にその人を赦していないのでしょうか?

ジョン・パイパー(著者) 、楠 望(翻訳) - 2026年 07月 28日  - 

以下は、『Ask Pastor John(ジョン先生に聞く)』というポッドキャストの収録内容を文章に起こしたものです。

[トニー(ポッドキャスト進行役)]相手が自分にしたことを頭の中で繰り返し思い出していても、その人を赦したことになるのでしょうか?この質問は、リスナーのエミリーさんから送られてきました。質問について話す前に、今日はルーイビルで行われているT4Gカンファレンスの最終日ですので、スタジオの音声ではなく、電話を介しての音声になることを断っておきます。では、エミリーさんからのメールを読んでみましょう。

『クリスチャンの結婚生活において、きよさと愛のための最大の戦いは、私に対して犯されたかのように見える妻の罪に対して、私が罪を犯すことを避ける戦いです。』

[エミリー]「ジョン先生、先生の長年に渡るオンラインでの誠実なミニストリーに感謝します。私の質問は、赦しに関することです。先日、夫が私の外見について言い放った言葉に深く傷つきました。そのことについては、賢明な助言を受け、信仰の先輩である年上の女性が寄り添っててくださって、私がいかに傷ついたかを夫に伝えることができました。もちろん夫は、私に赦してほしいとすぐに願い出てくれました。しかし、拭いきれない疑問が残っているのです。一体どうすれば、私は本当に彼を赦したと知ることができるのでしょうか?彼の言い放った言葉を思うと、今も心が痛みますし、そのことを繰り返し思い出してしまいます。私はどうにか、神様の助けによって、自分の感情がどうあろうと夫に仕え、夫を愛そうとしていますが、あの侮辱によって今も疼くこの痛みは、私が彼を本当に赦していないしるしなのでしょうか?」

罪に対する応答

まずは、結婚またはそれに類似する関係にある人にとって助けになるであろう、より一般的な解決方法について話すことから始めましょう。それから、エミリーさんの問題に移り、彼女が本当に夫を赦しているのかどうかという点について、より具体的に話そうと思います。

私と妻の結婚生活でわかったことは、きよくあるための戦いというのは、私が思っていた以上に、自分が犯された罪に対して罪を犯さないための戦いが中心だったということです。これは私には予想外でした。この戦いは、クリスチャンとして、聖書の教えに完全に一致したきよい生き方をしたいと願うなら、結婚生活におけるごく一般的な戦いと言えるでしょう。

『相手の言葉や態度の背後に罪の意図がまったくないにもかかわらず、私がそれを罪だと認識してしまうと、当然この問題はもっと複雑になります。』

神が聖書の中で描き定義されるような、最大限に愛に満ちた人になるための戦いの中で、想像以上に大きな割合を占めるのは、犯された罪に対して罪を犯さないようにするための苦闘です。少し複雑かもしれませんね、もう一度説明してみましょう。

クリスチャンの結婚生活において、きよさと愛のための最大の戦いは、私に対して犯されたかのように見える妻の罪に対して、私が罪を犯すことを避ける戦いです。私の頭に思い浮かぶのは、エミリーさんが話していたような罪です。例えば、傷つけるような言葉による罪や、助けになるはずの言葉を無視すること、非難するような表情を見せること、無関心であることを示す行動パターンや態度、または少しの気遣いの欠如によって相手を失望させることなどによる罪です。

相手の言葉や態度の背後に罪の意図がまったくないにもかかわらず、私がそれを罪だと認識してしまうと、当然この問題はもっと複雑になります。そのような態度を赦そうとしても、相手にしてみれば初めから私に罪を犯したつもりもないため、それ自体が侮辱的に感じられるのです。ですから、私が「あなたを赦します」と言っても、それは相手が罪悪感すら感じていないことに対する非難のようになってしまいます。

複雑になる戦い

そのような複雑な状況で、私ジョン・パイパーの直面する主な戦いの一つは——これは他の人も共感してくださると思いますが——結婚生活またはその他の人間関係において、きよくあるためには、相手に対して罪を犯さないようにするだけでは十分ではない、ということです。私が結婚したばかりの頃は、ただそれだけが大切だと思っていました。「とにかく、妻に対して罪を犯さないようにしよう」というのが私の考えだったのです。

『このように、不当な扱いを受けたという感覚が妥当である時、感情の状況はとても複雑になります。』

しかし、状況はもっと複雑でした。相手の罪に対して、罪ある応答を避けなければなりません。この戦いが非常に特殊なのは、私たちが誰かに対して罪を犯しているかもしれないまさにその瞬間に、自分に対して犯された罪のために、自己正当化の強い感情を抱くことです。これは捉え難い罪深さです。

私たちが自分自身の罪と向き合おうとすることは滅多にありません。なぜなら、問題は相手の罪だと考えているからです。(ポール・トリップの言うところの)あなたの「内なる弁護士」が、立ち上がってこう言うでしょう。「それは、あっち側の問題でしょう。あなたには罪の問題など何もありません。」しかし実際は、今最大の問題は、私の罪なのです。

私たちの抱く感情には、妥当なものもあるでしょう。正当化できる心の傷や憤りもあるかもしれません。このように、不当な扱いを受けたという感覚が妥当である時、感情の状況はとても複雑になります。もう一度言いましょう。私たちは、不当な扱いを受けたという実際に妥当な感覚を持ちながら、心はその不当な扱いに対して罪深い応答をしようとしているのです。

きよさを追い求める

ここまで話したうえで、エミリーさんの質問に戻りましょう。彼女の質問は、多くの長期的関係性、特に結婚関係のように言葉や行動によって互いが互いを傷つけたり、がっかりさせたり、苛立たせたりすることが必然的に起こるような関係性においてよく見られる、非常に重要な問題です。純粋に不当な扱いを受けることと、それに対して罪深い応答をしてしまうことに対処することの両方の複雑性について、私たちはしっかりと方向を定めていかなければなりません。

あらゆる人間関係、特に結婚関係において最も重要なことの一つは、神の御前で、私は妻の言動に責任を負っているのではなく、妻の言動に対する自分の応答に責任を負っているということです。これが、私に与えられた責任です。

『あらゆる人間関係、特に結婚関係において最も重要なことの一つは、神の御前で、私は妻の言動に責任を負っているのではなく、妻の言動に対する自分の応答に責任を負っているということです。』

特にそのような関係性の初めの頃というのは、相手が私の気に入らないことをしたり、苛立たせたり、がっかりさせたり、不当に扱うとき、それを直してあげたいと感じやすいものです。相手が私を悩ませたり不当に扱ったりするところを直してあげて、そのような言動がなくなるように助けてあげなければ、と考えます。しかしそれは、まったくの勘違いです。私が本来神の御前に与えられている、きよさのための最優先の責任、そして最優先で取り組むべき課題は、相手を変えることではなく私が変えられることであり、それによって、相手がたとえ傷つけるような言葉を発したとしても、私は信仰をもって、キリストのように、へりくだり愛に満ちた応答ができるようになることなのです。

善い行いで返す

新約聖書が私たち全員に与えているあまりに高い基準は、悪に対して悪を返さないことだと私には思えます。

悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。

Iペテロ3:9

あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。

ルカ6:27

ののしられては祝福し、迫害されては耐え忍び、中傷されては、優しいことばをかけています。

Iコリント4:12-13

このような応答は、キリストにある深い満足感からしか引き出せません。これこそ、クリスチャン生活の大いなる美しさです。キリストにある甘く、深く、強い満足感は、キリストを驚くほど大きく見せます。

自分を不当に扱う人に対して、怒り、自己憐憫に陥り、わめき、翻弄されて落ち込み、または黙り込んで何も言わずに粛々とやり過ごすのではなく、励ましと希望と知恵に満ちた応答をする源は、キリストにしかありません。私が罪のことをどれだけよく知っているか、これでわかるでしょう。神の子ども——少なくともジョン・パイパー——は、この大いなる奇跡を体験したいと願っているのです。

私たちは誰もが、ほとんど毎日、多少なりとも互いを傷つけ、がっかりさせ、苛立たせているものです。クリスチャン生活に与えられている大きなチャレンジは、イエスとの交わりと、神が私たちに約束してくださるすべてのことに深く喜んで満足することで、人間関係の落胆に消耗されないようにすることです。

相手への恨みを抱えないために

『私が本来神の御前に与えられている、きよさのための最優先の責任、そして最優先で取り組むべき課題は、相手を変えることではなく私が変えられることであります。』

エミリーさんの質問に関しては、私はこう言いたいと思います。感情的に傷つくことを、身体的に傷つくことと似たものとして考えてみましょう。パウロがむちで39回打たれたとき、その迫害者を赦した後もなお、パウロの背中には大きなみみず腫れや傷あとが残り、何週間も経っても痛みに苦しんだはずです。

この例えで言えば、赦すという行為の後には、肉体的な痛みと感情的な痛みの両方が残る可能性があります。この痛み自体は、必ずしも罪深いものではありませんし、赦せないことのしるしとも限りません。しかし、肉体的な痛みもですが、感情的な痛みはとりわけ、一瞬にして恨みや怒りや敵意へと変わってしまうことを私たちはよく知っています。そのプロセスは些細なものであるため、それがいつ起こったか把握するのは容易ではありません。だからこそ、エミリーさんは質問をしてくださったのでしょう。一体いつ、彼女の痛みは自己中心的な思いや恨みへと変わるのか、それを知るのは難しいからです。

最後に、エミリーさんのため、そして私たち自身のために、痛みや悲しみが罪深く、赦し難い恨みへと変容することのないようにするための四つのアドバイスをここに記したいと思います。

  1. ペテロの手紙第一2章23節にあるように、イエスがされたことを実践しましょう。悪に対して悪を返す代わりに、イエスはご自身を正しくさばかれる方にお任せになりました。私たちは不当な扱いを受けた罪を意識的に受け止め、それを神に委ねます。神は、私たちよりも公正に、賢く清算してくださいます。
  2. 傷から思いを遠ざけ、また思い出させるような行動も遠ざけましょう。パウロが言うように、すべて真実なこと、美しいこと、きよいこと、愛すべきこと、称賛に値することに思いを向けるべきです。私たちが受けるにふさわしい扱い以上に神が良くしてくださることを覚えましょう(ピリピ4:8)。
  3. 行動や言葉、態度、沈黙によって、あなたの配偶者を罰したり傷つけたりしそうになる傾向をすべて捨て去りましょう。
  4. 赦した相手にとって善いことのために、熱心に願い、働きかけましょう。赦しの本当のしるしは、あなたが相手を罰したいと願わないようになること、相手にとって善いことを願うようになることです。
聖書 新改訳2017©新日本聖書刊行会

This article has been translated and used with permission from Desiring God. The original can be read here, Have I Really Forgiven Someone If I Keep Remembering Their Wrong?.
この記事は「Desiring God」から許可を得て、英語の原文を翻訳したものです。原文はこちらからご覧いただけます:Have I Really Forgiven Someone If I Keep Remembering Their Wrong?