以下は、『Ask Pastor John(ジョン先生に聞く)』というポッドキャストの収録内容を文章に起こしたものです。
牧師ジョン・パイパーがスコットランドのエジンバラに滞在したとき、ある集会で聴衆からの質問を受け付けました。そのとき、クリスチャンで未信者の夫と結婚している女性から質問がありました。「夫に従う、従わないの境界線はどのように引けばよいのでしょうか」というものでした。以下はそのやり取りです。進行役は地元の教会の牧師アンディ・プライムが務めました。
アンディ・プライム:ある女性からの質問です。「私は結婚後に救われました。夫が家庭、そして家族の頭であるという聖書の教えを受け入れています。私のような状況にある女性にどのような助言をされますか」。女性の夫はまだ信仰を持っていないと推察します。
『服従は、未信者の脳にあなたの脳が降伏することを意味しません。もしそうであれば、あなた自身が不信仰な者になってしまうからです。』
無言で夫を獲得する
ジョン・パイパー:そうですね、あなたのためのみことばがあります。ペテロの手紙第一3章の1節から6節は、未信者と結婚している女性に向けて書かれています。ですから、私からの最初の助言は、まずこのみことばを暗記することです。このみことばは実に驚くべきもので、私は大好きです。正直、自分のためにこのみことばが好きだと言えます。女性に向けて書かれたみことばであっても、そのほとんどが私自身にとっても非常に有益だと感じています。このみことばに注目しましょう。
このみことばの核心は、あなたの言葉には生き方が伴っていなければならないということです。「(夫が)妻の無言のふるまいによって神のものとされる」と書いてありますね(Iペテロ3:1)。これは「夫にイエスについて決して話してはいけない」という絶対的な意味ではないでしょう。なぜなら、夫はあなたが信仰者であることを知らなければ回心できず、みことばは、彼が回心すると述べているからです。つまり彼は福音を理解できなければいけません。
ですから、このみことばは「熱弁をふるったり、しつこく責めたり、説教したりしないで、心を開き、謙遜と柔和をもって、夫の前であなたの立ち位置とその理由を示すことができるようにしなさい」という意味だと思います。説教するようにではなく、証しとして「これが私がイエスを愛する理由です。イエスを愛すると、あなたをより良く愛することができると信じています。だから私がイエスを第一にしても、それはあなたを愛さないことだと思わないでください。そうじゃないんです。イエスをもっと愛することで、あなたへの愛は深まるのです」と伝えてください。彼はこれを理解できないかもしれませんが、あなたがそれを示し、証明していかなければいけないのです。
イエスの言うことが絶対
現代のような時代においては、従順と言うと多くの人が真っ先に配偶者による虐待を連想するので、とても厄介です。でも、夫を絶対的な主としない真の従順も存在します。イエスが、あなたにとって夫よりも上位の主でなければ、この聖句は意味を成しません。なぜならあなたは夫を、あなたたち夫婦双方の主であるイエスに回心させようとしているからです。もしあなたが夫を回心させようとしているなら、夫の誤った考えには、明らかに服従しないことになります。
「服従」が何を意味するかについて、このみことばの言わんとすることをよく考えてください。服従は、未信者の脳にあなたの脳が降伏することを意味しません。もしそうであれば、あなた自身が不信仰な者になってしまうからです。みことばは「妻たちよ、自分の信じているところにしっかり立ちなさい」とはっきり命じています。あなたには主との独立した関係があり、それは本物で誰からも揺るがされないものです。夫が何を言おうと、何をしようと、これは真実です。イエスがあなたの主であり、あなたは夫にもそうなってもらいたいのです。これは驚くほど独立した姿勢であり、ある意味では従順ではないと言えるでしょう。
『イエスの絶対性は、子、妻、市民、教会員の従順を相対化し、限定的にするのです。』
知的な献身で言えば、あなたは夫の信じるものではなくイエスに献身しています。つまり従順には「夫は私の主なのだから、彼の言うことには何でも従う」という意味での絶対性はないのです。そうではなく、イエスの言うことが絶対です。ただ、いったんあなたがイエスに安らぎを見出し、夫を頭としたいと願うようになったら、たとえ彼が頭でなくても、あなたは彼の主導権を尊重し、彼が自ら率先して家族を守り養うように、できる限りのことをするでしょう。
「頭」の意味するものとして、私の考える三つの言葉がこれです。必要であれば命をかけて妻である女性を守るということ。自分だけの女性である妻を、あらゆる有害な物から守る決意です。二つ目は、全力を尽くして妻を養うということ。自分に障害があり妻が働かなくてはならない場合でも、家族を養うためにできる限りのことをする決意です。そして率先して行動するということ。これは男性に向けて語っていることですが、これこそ、夫が目覚め、そうなってほしいと、妻の願うことなのです。
限定的な従順
未信者の夫に対し、従順に「いいえ」と言う方法はあると思います。もし彼がグループセックスを求めてきたら、こう言うのです。「それはできないわ。あなたを愛しているけれど、これはあなたにも私たちにも良くないと思う。イエスを信じているから、それはできません」と。
聖書には従順について語る箇所が多くあります。子が親に、妻が夫に、市民が政府に、教会員が長老に、という四つの関係においてです。けれどもこのすべてが限定的です。絶対的ではありません。そうでしょう?私たちは、政府の言うことすべてに従うわけではありません。信仰から離れたおかしな長老の言うことすべてに従うわけでもありません。親が子に、何らかの罪に加担させようとするなら、親の言うことすべてに従うことはできません。イエスの絶対性は、子、妻、市民、教会員の従順を相対化し、限定的にするのです。
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